エッセイ

歌物語「おこりじぞう」を語り継ぐ  ~核廃絶の時代を願って~  潮見佳世乃

 

歌物語「おこりじぞう」は、1985年7月25日に開催された「ノーモア広島コンサート」での父・高岡良樹が発表する為に、依頼を受け1年かけて創作された作品である。演奏時間25分・仏教色の濃い歌物語を始めて制作「自己の可能性にチャレンジし満足を得た作品」と父は記しているが、東京大空襲を経験しているが故に、制作は難航したそうだ。さらに、打ち明け話をすれば、謝礼は当日の出演料も含めて3万円平和運動への参加とはいえ、経済社会の人には考えられぬことだろうと思う。しかし、その日たった1度きりの舞台で熱唱するだけだった「おこりじぞう」は、その後影絵劇団「かかし座」とのコラボ公演、学校公演等で公演を行い全国20万人以上の人々が聴いてくださる作品へ変貌した。

「おこりじぞう」は、広島の原爆投下で被爆した少女とお地蔵さんの奇跡の物語である。「笑い地蔵」と呼ばれていたお地蔵さんが、戦後「おこりじぞう」と呼ばれるようになった話で、広島の人たちが焦上から立ち上がり、街が復興してゆく中で人々に語られ、童話作家の山口勇子さんが、絵本化して日本中に広まった。

爆風に吹き飛ばされて、首から下は焦土に埋まった笑い地蔵の所へ、被曝して瀬死の少女がよろよろと来て崩れおちる。少女は、お地蔵さんの顔を母の笑顔と見間違えて、必死に水を求める。すると地蔵の笑顔が仁王のような形相に変わり見開いた目から涙が溢れ、少女の口へそのしずくを注ぎこむのだ。喉を潤した少女の息はやがて静かに絶える。すると、張りつめていた地蔵の顔は、焦土に崩れ落ちてしまう。戦後、掘り起こされた首なしの地蔵さんに、顔の形をした石が乗せられたが、その顔は怒り顔で「おこりじぞう」と呼ばれるようになったという話だ。今もお地蔵さんは健在で、愛媛県松江市・龍仙院に祀られている。

私は、もちろん戦争は体験していない。しかし、子供の頃から戦争の話を聞いて育ってきた。もし何も聞かないで育っていたら…と思うと、とても恐ろしい。戦争体験者は、どんどん減っている。「おこりじぞう」を父から受け継いだ時は、戦争体験していない私が語って果たして伝わるのかと悩んだ。原爆投下、大爆発、被害者の阿鼻叫喚を一人で表現する。さらに瀬死の少女の口へ地蔵が涙の水を振り絞って注ぎこむ場面は、渾身の力を注がねばならない。父も同様に葛藤していた姿を私は覚えている。そして何よりも大切な事は、私が祈りを捧げられるかだ。おこりじぞうの物語は、終章で笑顔にもどり、地蔵真言・ビサンマエソワカで終わる。

私が「おこりじぞう」を語り継いでから、心強いことに多くの若いミュージシャンが私の平和への思いに賛同してくれている。そしてご縁をいただき5年前からは、千葉市中央区本町にある本円寺にて、千葉大空襲(七夕空襲)の慰霊コンサートとして、毎夏おこりじぞうコンサート開催している。すでに来年は、7月7日(日) に開催を予定しており今から身が引き締まる思いだ。

戦争の話は辛くなるから聞きたくないという人は多い。それはそれで仕方がないのかもしれない。しかしこのような活動を続けている歌手が1人くらい千葉の街にいてもいいではないか。この時代から未来の人々へ、語り伝えなければならぬことを歌い続けるのが私の仕事なのだ。 核廃絶の時代を願って、私はこれからも「おこりじぞう」を語り続ける。

(2023年8月 地域コミュニティー誌寄稿より)